DATSUN TYPE 210
ダットサン210型
「富士号(豪州一周ラリー・クラス優勝車)」と「桜号(同ラリー・クラス4位入賞車)」
1958年8月、日産は初の海外ラリーとなる第6回豪州一周ラリーに参戦。「富士号」・「桜号」と名付けた2台のダットサン210型をオーストラリアに送り出した。参戦の目的は、当時世界最長かつ最も過酷なラリーとして有名だった豪州一周ラリーを通じてダットサン210型の技術水準を実験し、将来の輸出乗用車を企画する際の参考にするためであった。例年にない悪条件下ながら、日産は出場した2台とも完走。富士号はクラス優勝、桜号も同4位の成績を収めた。同ラリーでの活躍により、翌年4月のニューヨーク自動車ショーでは大変な注目をあび、その後の対米輸出の基礎を築いたのである。
日産ラリーチームのマネージャーに任命された片山豊は、1957年にトヨペットクラウンで参加した神之村邦夫から彼自身が撮影したコースの映像を見ながら説明を受けた。また片山は練習メニューを作成し、北海道から本州全土を走る長距離コース訓練を主体に、高速走行、冠水走行もテストしながら、性能と耐久性の確認、走行中に起きたトラブル対策を研究するなど入念な準備を重ねていた。世界一過酷な「道」へ挑戦した収穫とは、車両の総合性能に加えて「充実したサービス体制の大切さ」を現地現物で学べたことである。
例えば、当時のダットサンの車載工具はインチ規格とミリ規格の二つの工具が搭載されていた。その理由は、第二次世界大戦を挟んで拡大した日本と欧米の技術格差を挽回すべく、日産が1953年10月に英国オースチン社と締結した技術提携にあった。すなわち、オースチンエンジンをベースに開発されたエンジンはインチ規格、シャシーは日本のミリ規格で製造されていたのである。長距離耐久ラリーでは自力修理が必須だが、極限の状況下で各規格の工具を使い分けるという余計な手間が発生した。また、サポート車両を帯同していない日産チームは、各車両にスペア部品や食料も積み込む必要があり、鉄の塊である工具を倍持つこととあわせて重量増加の問題を抱えて参戦していた。その一方、総合1位~3位を獲得したフォルクスワーゲンのチームは、すべてのメンテナンスサービスを提供できるバンを並走させて参戦車両のコンディションを維持し続けた。
帰国後、日産はミリ規格への部品統一を急ぎ輸出に備えた。片山はフォルクスワーゲンチームの充実したサポート体制を手本とし、のちの日産の米国進出時に実践。ダットサンを輸入車ナンバーワンに成長させた原動力となったのである。
ちなみにトヨタ、日産両社の同ラリー参戦には日本の外務省も絡んでいた。出走車両とチームスタッフを「親善大使」に仕立てて、第二次世界大戦で悪化した日本とオーストラリアの友好修復を図ろうとしたのである。車名に日本の象徴である「富士」・「桜」を用いた理由の一端がうかがえるであろう。
車両データ |
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パートナー |
日産自動車株式会社 https://www.nissan.co.jp/ |